加藤文太郎記念図書館
【来館日】 07年04月28日
【所在地】 〒669−6702 兵庫県美方郡新温泉町浜坂842−2  
【TEL】  0796-82−5251
【HP/URL】 加藤文太郎記念図書館

 加藤文太郎記念図書館の 「孤高の人」より引用

 加藤文太郎は、1905年(明治38年)3月11日 兵庫県美方郡浜坂町浜坂552番地 加藤岩太郎と、よねの四男として生まれる。

  1919年(大正8年)3月11日 浜坂尋常高等小学校高等科を卒業後、神戸市の三菱内燃機神戸製作所(現在は三菱神戸造船所)に製図修業生として入社、設計課員として精励するかたわら、兵庫県立工業学校別科機械科(修業年限2ヶ年)を卒業、更に神戸工業高等専修学校電気科(修業年限3ヶ年)の課程を卒業、技能の向上に専念した。

  1923年(大正12年)から登山を始め、1925年(大正14年)夏、白馬岳登山が始まりで、1928年(昭和3年)ごろから単独行を重ね、積雪期の八ヶ岳、槍ヶ岳、立山、穂高岳、黒部五郎岳、笠ヶ岳など果敢な山登りを展開する。なかでも冬の槍ヶ岳単独登頂は、当時の新聞や岳人たちをアッといわせる驚異的な足跡を残す。

  彼のその沈着と用意周到かつ独創的にして勇猛果敢不屈の岳人として、「単独登擧の加藤」、「不死身の加藤」と呼ばれ、日本の登山界に不滅の足跡を残し、国宝的存在とまで賞賛されるに至る。

  やがて、加藤もより困難な山登りに挑むため、良き同伴者を求め、1934年(昭和9年)4月、吉田富久君と共に前穂高北尾根をめざす。翌年1月には、単独で立山から針ノ木岳を越えて大町に出た。そして、1936年(昭和11年)1月初旬、再び吉田君と共に槍ヶ岳北鎌尾根に挑み、猛吹雪にあい、天上沢に31歳の青春を終える。

  ヒマラヤへの夢を実現できなかったのが惜しまれる。彼の死をある新聞は、「国宝的山の猛者、槍で遭難」と伝える。

  これらの山行と劇的な生涯が新田次郎著「孤高の人」に克明に描かれ、山を愛する人々の中に全国的な感動を呼び起こしている。


同じ兵庫県出身の冒険家に植村直己がいる。
植村直己は知っているが加藤文太郎を知る人は多くはいないだろうと思います。
登山をされている人は一度はくらいは耳にしたことがあるんじゃないでしょうか。
私自身も山歩きに興味を持っていなかったなら彼を知らなかったかも分からない。

ただ、二人は生きた時代が大きく違う。植村直己は加藤文太郎の没後5年して生れている。
日本を代表する冒険家の植村直己も郷土の偉大な岳人、加藤文太郎の生き様に大いに影響されたと思う。

もし加藤文太郎が植村直己と同じ時代を生きていたならどうだろう?
昭和初期の装備と現代の装備を比べたら雲泥の差があるだろう。性能、重量、利便性などをは比べ物にならないと思う。
現代の最新装備で加藤文太郎がいたとしたら、どんな山登り展開するのだろうか、創造もつかない。
■加藤文太郎記念図書館■
浜坂の中心街から少し東側に外れている所にある。一階が図書館になっており、その二階に加藤文太郎の資料館がある。
■加藤文太郎のレリーフ■
階段の突き当たりにある加藤文太郎のレリーフのバックは彼達が遭難した槍ヶ岳と北鎌尾根なんだろうか。
■加藤文太郎の愛用品■
この時代としては珍しいカメラなどもある。
もちろん白黒写真だが沢山の写真も展示されている。殆どが雪をまとった山ばかりでした。
単独者には登頂の記録証拠写真が無いと誰も信用してくれなかったのだろう。
■登山靴■
登山靴の底には部分的に鉄が巻かれてある。
「地下足袋の文太郎」といわれていたそうだが、雪山では地下足袋はむりだろう。
また、ごっつい重そうなアイゼンもありました。
■展示品のピッケル■
画像のピッケルは形は現在のものと変わらないが
材質は全く違う。樫の木に鉄だ。
その他にもメモ帳もあり山に持って行くリストなどが書き込まれている。
■加藤の遭難を伝える新聞■
「国賓的山の猛者」などと当時の加藤の凄さを伝えている。
二人が遭難して24年目に同僚や後輩達が
遭難現場近くの北鎌沢にケルンを建てた。そのケルンにはめ込まれたレリーフ。遭難死を遂げた二人の文太郎の文と、吉田富久の富を合わせて文富ケルンと言われている。
■三徳山三佛寺■
三朝温泉近くにある三徳山。国宝の投入堂がある。その投入堂まで往復1時間半位で往復出来る。
駐車場に着いたのが17時半だった。
ライトとペットボトルもって石段を駆け上がっていくと、途中のお寺の方が5時で参拝は終わりで、投入堂にも途中カギが掛けてあり行けないと言われるので諦めて、近くの三朝温泉に入り蒜山高原に向かう。

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